ちょっといっぷく 第79話
第79話 私の文章読本
ある作家は「あかの他人に時間を使わせた上で、その時間は無駄ではなかったと思わせるような文章を書け」という。心構えとしては理解できても、こちらはプロの作家ではないのだから、とてもそんな深遠な目標が達成できるはずない。日暮れて道遠しである。
しかし私の拙文でも読んで下さる人がいらっしゃる以上、近づく努力はしていかねばと気がけてはいる。
参考にしているのは、野口悠紀雄著「超」文章法=伝えたいをどう書くか=中公新書である。
「ためになり、面白く、わかりやすく」文章を書けとあるが、これがまた大変で、それ程簡単なものではない。抜粋してみる。
メッセージとは「ひとことで言えるもの」8割方はこの段階で決まる。メモでもよいから、とにかく書き始める。見たまま、感じたままを書くことではない。その中から書くに値するものを抽出すること。
メッセージが見つからないときはどうするか、考え抜くしかない。
ニュートンの万有引力の話。
林檎が地に落ちるのに、なぜ月は落ちないのか?とひたすら考え続けることによってこの法則を発見したといわれる。
机を離れ、散歩することによってひらめく時もある。私は本を読むことにしている。
『ためになるか』有用な情報を含んでいるかどうか、情報は正しく、信頼できるものでなければならない。
『面白いか』読者に読んでもらおうと意識しない文章は傲慢だ。
『謙虚であれ』読む人によって興味があるテーマかどうか、自分を客観化しつつ書く。
これについては、故山本夏彦が安部譲二(作家)に伝授したという文章作法を読んだことがある。読者にはわからない、持って回った難解な文章は書くな、平易な文章で書けないことは、そうめったはにない。そしてこれは本当にあったことだと、奇異な事実を読者に押し付けるな、独りよがりの文章を書くのは、あか抜けしなくて品が悪い…というのだが…
わかりやすい文章を書く大前提は、何より書く本人自身が内容をよく理解おかなくてはならない。
作文には起承転結が大切と教えられたが、これはもともと漢詩の形式であり、序論、本論、結論の三部構成でよい。
全体を通しての論理構成をはっきりさせる。読む価値があることを、始めの数行でアピールする。
タイトルも重要である。
重要な学術論文でさえ、タイトルには腐心している。
18世紀のイギリスの物理学者キャベンディッシュの話。
キャベンディッシュは、重力定数gを最初に測定した科学者ちしても有名だ。論文のタイトルは、「重力の測定」でもなく、「定数gの値」でもない。「地球の重さを測る」とした。誰しもわくわくする魅力的なタイトルではないか。
地球から月までの距離(d)と地球を回る月の速さ(v)とがわかれば、ニュートンの法則により、
〔地球の重さ×g〕の値がわかる。dは三角測量(月と水平線の角度を地球上の二点で同時には測る)により、vは月の軌道周期とdにより、それぞれわかる。だから、gの値がわかれば地球の重さはわかる。答えは6×10㉔キログラムというのだが、時間に余裕のある方は計算してみられたらいかが。
この本の中で特に強調しているのは、「とにかく書き始めよ」である。始めなければ進まないし完成もしない。
スイスの哲学ヒルティの「幸福論」の一節を引用している。
「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって心を仕事に向けるという決心が結局一番難しい」「ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりしていて、なかなか仕事にかからない」
耳が痛い話である。
新しい発想は「考え続けることによって生まれる」ことは先述した。自分ひとりも知識の量は知れたもの、さればとて分厚い本や専門書を読む時間もなければ、その根気もないが、知識を得るためには本を読むことは必要だと思う。広く浅くよむためには新聞記事は便利だ。各界、各層、先輩たちの経験や知識の宝庫である。
私は業界紙の購読はやめたが、4紙(日経・朝日・西日本・島原)には目を通している。勿論ちょっと油断をすると、山のようにたまって古新聞になってしまうが…
文章の書き方について、細かいルールを云々されると手も足も出なくなるが、野口悠紀雄の本の最後に『書き方には個人差がある。絶対に従わねばならない黄金律など存在しない。自分にあった方法を、試行錯誤によって探してゆくしかない』とある。
これでちょっと一安心というところだから、もののか考え方は人それぞれに違うのだから。人それぞれの文章読本があっても良いという結びに共鳴するのである。
(前島原商工会議所会頭)
2003年9月2日