ちょっといっぷく 第89話
第89話 金にならないことをするのは最高の贅沢です
家内は言う「一銭にもならんことばかり熱中して…」、当方は「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」なんて偉そうなこといって、知らん顔である。好きなことに夢中になるのは楽しいものである。
帆船作り(日本丸は14~5年前に作った)は昔から続けていた。「戦艦大和」の木製キット(250分の1)が売られているのを知り、今年6月から制作にかかり、9月末に完成した。
模型作りには、いろいろのメリットもある。例えば根気を養うのに役立つ・手先の働きはボケ防止にもなろう・細かい作業には集中力もいる、なによりも面倒がらず続けられるのは、徐々に姿を表す期待感と楽しさだろう。
ある製薬会社の創業者は、日本海軍連合艦隊、数百隻の模型を図面をもとに250分の1に縮小して作らせ、毎年5月27日の旧海軍記念日に全艦を配置し、お召艦を中心に観艦式をやっているということを雑誌で読んだ記憶がある。空には戦闘機も飛ぶという本格的なものだそうだ。
私の知人で、ある経営者は、潜水艦作りに没頭、本体が水に潜るところまでは出来たらしいが、次に魚雷発射を考えた。水中で、線香花火の火薬を使って魚雷を発射する仕組みなのだが、発射は出来ても魚雷より艦本体の速度が早く、魚雷を追い抜いてしまうというので、目下思案研究中だそうだ。
ここまでくると正に、『疾、膏盲に入る』の類だろう。
さて「戦艦大和」について書くのは正月特集もいれてこれで3回目になる。
わが造艦技術の最高水準を示し、戦後の世界的評判でも戦艦としての「世界一」に格付けされる最優秀艦であり、日本民族の誇りであると思うからである。
排水量 72,800トン
長さ 263メートル(東京駅がすっぽり入る)
最大幅 38.9メートル
最大速力 27ノット(時速約50キロ)
主砲 46センチ砲三連装 3基計9門
副砲 15.5センチ砲12門
搭載飛行機 6機
乗員数 2,300名(沖縄特攻出撃時は2艦隊司令部を含め3,332名)
「戦艦大和」の誇れる特徴は幾つもあるが、とりわけ最大の自慢は砲塔=1基2,200余りトン・駆逐艦1隻分の重さに匹敵=を手足のごとく軽々しく自由自在に旋回し、同時に46センチ砲を左右上下に動かし、そして弾薬の運搬から装填までやってのける、軍艦の一局部にこれだけの恐るべき力を発揮できたのが、実は6,000馬力のタービン機関4基、世界最初の砲塔用タービンの出現であった。
火薬(1発分332キロ、米俵にして6俵分)と砲弾を塔下15メートルの弾火薬庫から揚げて装填発射するまでの操作を、僅か30秒から40秒の間隔で実施することが出来た。その9発が30秒ごとに発射されるのだ。これを操作する砲塔と水圧ポンプとは驚異的であろう。
アメリカ海軍の「大和」研究の最高技術官は戦後「『大和』を作れと命じられれば我々もそれを作ったであろう。ただ46センチ砲塔を旋回する水圧ポンプだけは確信が持てない。この点は正直に頭を下げる」と直言した。
「大和」の主砲弾数は1門あたり130発、合計1,170発、副砲弾は1,620発であった。沖縄戦では、空からの攻撃には、主砲・副砲の射撃は効果が少なく、轟音・震動・爆風・砲煙などで機銃・高角砲の射撃に邪魔になる。
「主砲・副砲は射撃禁止、機銃・高角砲は全力を発揮せよ」との有賀幸作艦長の命令で、主砲が撃った砲弾はたったの3発のみであった。
大本営航空参謀の源田中佐は「かの万里の長城、ピラミッド、「大和」「武蔵」、こんな無用の長物は1日も早くスクラップにして航空母艦にしたほうがいい」と言っていたし、戦時中も戦後もこれは正論として喧伝され、日本海軍敗北の原因は「大鑑巨砲、戦隊決戦」思想であるというのが定説のようになっていた。
果たしてそうであるのか、異論もある。
当時の世界の趨勢は、日本だけではなく米国も英国も大艦巨砲主義で決して航空重視ではなかった。太平洋戦争開戦時点では、米国は空母8隻、日本の10隻よりも少なかった。米海軍は反対に17隻の戦艦を保有していたが、日本は8隻であった。
「大艦巨砲主義」は昭和16年まで生きていたのである。戦艦大和について世界的軍艦評論家オスカー・パークスは「『大和』はその排水量を最高度に利用して、信じがたい程の威力を備える大戦を誤ったために、本来の目的には使われずに終わった…」といっているように、海軍の虎の子として大事に温存し過ぎて、ここぞという一番に働き場所を与えなかったというのは、後知恵であろうか。
大和は、沈んだ。そして日本海軍も沈んだ、そのとき日本を護る力は消え去ったのである。
しかし忘れてならないことは、46センチ砲をはじめ大和に搭載された新技術は、黒船に驚嘆した日本人が明治以来進めてきた近代化の到着点であり、近代日本が誇る記念碑的建造物である、ということである。
そして戦後、日本が造船や自動車等のモノ造り大国として復興していくのに、大和建造はその基礎作りに大きな貢献をしたのだ。大和のために開発された新技術の応用を始め、ブロック工法や時間管理やコスト管理といった工程管理は、戦後の日本のメーカー工場では当たり前に行われているが、その多くが大和を造った学習効果であることに注目すべきであろう。
【参考】
△戦艦「大和」の最後の艦長 生出 寿
△大海軍を想う 伊藤 正徳
△戦艦大和は時代遅れの「鉄の塊」だったのか 平間 洋一
(前島原商工会議所会頭)
2003年11月12日