島原生き残りと復興対策協議会の歩み
島原生き残りと復興対策協議会
由 来 記
◆普賢岳の噴火と市民活動
平成2年11月17日、普賢岳の頂上から二条の噴煙が上がった。
雲仙・普賢岳は、寛政4年、1792年即ち約200年前に雲仙岳の噴火があり、その直後、島原市の背後にある『眉山』が地震によって突然山崩れを起こし、島原半島で10,000人、対岸の肥後熊本は津波によって5,000人、計15,000人の犠牲者が出た。世にいう『島原大変肥後迷惑』の歴史をもつ。
この噴煙のあと、翌3年6月3日に大火砕流が発生し、43名の命が失われ阿鼻叫喚の巷と化したのである。
この日以来、毎日が火山灰や「土石流」の発生、マグマの露出、火砕流と続き、警戒区域や避難勧告区域の設定がおこなわれた。
住家、非住家の全半壊の被害が約2,500棟、災対法(災害対策基本法第63条第1項)に基づく警戒区域が発動された。最大時には、対象世帯2,047世帯、7,208名に対して設定、長期にわたって避難生活を強いられ、農業をはじめとする一切の経済活動は停止のやむなきに至った。
6月3日大災害後の7月5日、島原商工会議所では、議員懇談会をひらき、このままでは島原は沈没してしまう、生き残るためになにをすべきか、みんなで考えようと7月17日高橋三徳代表(島原生き残りを考える会・初代会長)が旗振り役となって、島原文化会館大ホールに1,000人の市民を集めて「島原生き残りを考える会決起大会」を開催した。
◆島原生き残りを考える会と請願活動
この決起大会において、1千億円の基金の創設や、特別立法(警戒区域設定にともなう損失補填や災害対策基本法の見直しなど)を国にお願いする決議がなされ、国会や中央省庁にむかって度重なる請願活動がはじまった。1千億円基金の創設は、前長崎県知事高田勇氏などのご尽力などもあり、やがて実現することになったが、特別立法は国の厚い壁にさえぎられて実現には至らなかった。
しかし自然災害に遭った世帯に、国費など現金支給を義務づける『被災者生活再建支援法』が成立、本協議会がはたした被災者救済の役割や成果が、その後の阪神淡路大震災や有珠山噴火被災地の支援策に受け継がれたのである。
◆島原生き残りと復興対策協議会と官民一体の請願
さて、8月20日には、本格的組織活動をするため「島原生き残りを考える会」を発展的に解消して、農業団体、被災者団体などをふくめ37団体、最終44団体つまり島原市民全部を網羅した市民団体として島原生き残りと復興対策協議会(会長高橋三徳氏)の名のもとに出発することになる。
9月にはいって、特別立法のためには、国民の合意が必要とのアドバイスがあり、日本の全人口の約1割1千万人の署名を集めることをきめ、ただちに全国にむかって署名運動を開始した。
平成4年1月26日、東京の日本教育会館で600名以上の参加者をあつめて支援に対する感謝と活動の経過報告を全国にむけてアピール、その模様はテレビや新聞で全国にむけて大々的に報道された。
このときの署名の骨子は、1千億円の基金創設と特別立法であった。
翌27日三度目の陳情にむけて150名余りの陳情団を編成、全国からよせられた4,861,016名(最終的には平成6年2月28日現在で5,237,833人)の署名をたずさえて国会などへ陳情した。
しかし私たちの意気込みに反し、国の方は、行政と一緒になってあげてこなければ動けぬという。噴火災害が長期化、大規模化して非常事態にあるわけだから、行政と住民が真に一体となってこの局面を乗り越えなければならないという認識に到達した。
ここで初めて官民一体の共同請願が実現、平成6年6月27日、28日実行にうつされた。このとき初代会長高橋三徳氏は引退されており、副会長であった森本元成が2代目会長の名で請願することとなった。
この請願については、在京者による島原半島災害・復興対策本部長、田代則春弁護士の筆舌に尽くせぬご尽力をわすれてはならない。
加えて地元選出の国会議員とくに久間章生代議士およびその秘書団の活躍には頭のさがる思いをしたものである。
苦労をして作り上げ汗を流した共同請願は無惨にも保留となり採択されなかった。しかしわれわれはあきらめなかった。なんとしてでも国の約束をとりつけることが大切であるとの考えから、事前に国側と再三の打ち合わせを行い、平成6年11月22日最終的な請願を衆参両院に提出、これは同年12月8、9日の本会議で採択され、内閣へ送付された。
思えば大変長い道程ではあったが、普賢岳災害で官民一体の請願が採択されたのは初めてで、これによって「国は誠実に請願を処理する義務が生じた」わけである。
以来国は、約束したすべての項目について、確実に着々と実行していることは先般ご承知のとおりである。
◆復興対策協議会への評価
本協議会の活動について、マスコミや全国の他市町からいろいろの評価をいただいたが、代表されるのは平成10年4月23日付の西日本新聞の紹介記事であろう。
以下引用する。
1990年11月の長崎県雲仙・普賢岳噴火から約8年、久留米大学の鈴木広教授(都市社会学)は、普賢岳の噴火災害に被災地島原市の地域社会がどう対応したかを調べた『災害都市の研究-島原市と普賢岳』を出版した。
市民アンケートや関係団体・機関への聞き取り調査などをもとに、長期災害下でのコミュニティー(地域生活共同体)の変容を分析している。
鈴木教授は「普段バラバラに暮らしていても、災害の長期化、全域化を機に一挙に集結する「島原型」の対応について、ほかの地域や都市でも、防災面で町内会などを単位として土着性を生かした町づくりを考えるべき」と述べている。
半島という地理的条件や共通の歴史的背景をもつ土着的・伝統的なコミュニティーが、災害を契機に結びつきを強め、市内主要団体を網羅した復興対策協議会が市民の意見を集約するなど、島原市を「一つの意志のあるコミュニティー」として機能させ再生への原動となった、というのである。
◆沢山の感動記録のなかから
1.義援金
このたびの災害で全国から沢山の救援物資や義援金が続々と届けられた。義援金の総額実に240億円。このお金がどん底から這いあがる復興に、計り知れない力となったことは言うまでもない。
その善意に言葉では言い尽くせぬ同胞としての心の暖かさ、連帯感を感ずるのである。
このためにも我々は、いかなる困難があろうとも、立派に復興を成し遂げなければならない責任と義務が生じたのだと思う。
2.1千億円の雲仙岳災害基金が実現
平成3年9月基金として540億円がすでに用意され、この金利を活用して復興にあたっていたが、5年経過して平成8年度で切れる。
平成7年1月には阪神・淡路大震災があったにもかかわらず、平成7年12月27日、当時の深谷隆司自治大臣が来島され1千億円決定の発表がなされた。このときの模様は、同氏著『時代に挑む』に詳しい。
そのなかの一節に『被災者など43団体でつくる「島原生き残りと復興対策協議会」の森本元成会長は、「これは被災地への応援歌、自力復興の呼び水であり、われわれ自身の頑張りも問われる」と述べていた』と記されている。
3.ありがとうキャンペーン
災害から丸7年をむかえる平成9年11月17日にあわせ、全国からよせられた支援に地元住民の感謝の寄せ書きを全国紙や地元紙に広告した。島原市、深江町を中心に住民の愛郷心と感謝の深さ、もてなしの心を全国に伝えたのである。
この反響は物凄く、北海道から沖縄まで、小学生から高齢者まで幅広いお手紙をいただいた。
「新聞を読んで泣いたのは初めて」(静岡県・23歳主婦)
「読み進むうちに心の中から暖かいものがこみあげた」(兵庫県・49歳女性)
等々「広告に元気をもらった。こちらこそありがとう」とする全国から8,500通の手紙があり、いずれも感動なくして読めない内容ばかりであり、日本人の心が伝わってくる。
これは後世に残すべきとして、県で冊子として刊行されている。
4.当時の村山総理大臣に「島原生き残りと復興対策協議会」を代表して直訴陳情
平成6年8月9日、当時の村山総理来島のとき、市内のホテルで陳情をした。
要点は21分野100項目にわたって被災者などの救済対策を推進されていることへのお礼、災害対策基金増額のお願い、地域に密着した規格の高い道路建設などを要望した。
そして当時保留になっていた請願に対し温情ある配慮を申し上げたところである。
◆むすび
郷土愛がささえたこの協議会の活動も災害発生から11年余、噴火活動の終息から5年余を経過し、官民一体で策定された「島原地域再生行動計画(通称がまだす計画)」も概ね終了することから、「結成当初の目的は一応達成された」として平成14年3月7日参加43団体の会員や当時の盟友や関係者が一堂に会して解散式を挙行、その幕を閉じた。
式上、かずかずの祝辞と慰労のことばを頂戴したが、代表して高田前知事の来賓祝辞を記す。(島原新聞記事より抜粋)
「いま山(普賢岳)は静かにたたずんでいるが、10年前を思いおこすと長い経過を感じる。濁流がうずまき、土石が狂ったように襲い、財産をおいたまま家がつぶれるのを見ながら避難するというたいへんな状況で、みんなが必死だった。なかでも当時、特別立法が一番の課題だったが、そのためには長い月日がかかるもの、人の生活は1日も待てない状況で待ったなしの対応をせまられていた。したがって、しばられる法律ではなく、状況にあわせて地元で自由に使える原資が必要だったが、みなさんの後押しで1千億円という基金ができた。国の大きな支援で防災事業もかなり進み、道路も家も緑もよみがえってきた。しかし、山はいまでこそ平穏ながら、あの土砂の下に多くの町があったことを思うとつらい」などと被災者の思いに心をよせてこみあげる胸中を語った。
本協議会は前述の「がまだす計画」にひきつがれ復興への原動力となったことは紛れもない事実である。つまり官と民が1つの目標にむかって燃えた。それが国を動かし、人を動かした最大の要因であろう。
協議会の基本理念は、終始一貫『自分たちが住んでいる町が良くなれば、そこに住んでいる自分たちも良くなる』である。
◆スローガン
沢山の人をまえに、檄をとばすのは元々私の好みではない。
しかしこのときは、私たちの故郷がなくなってしまうかもわからないという切迫した危機感があった。
国会や中央省庁に請願書を提出するまえに、島原市の文化会館中ホールで実施した請願大会の時、檀上で
・力のあるもんは スコップをもて
・知恵のあるもんは 知恵を出せ
・金のあるもんは 金を出せ
・何も持たんもんは 頭数になれ
と吠えた。
要するに、屁理屈や泣き言を言っている場合じゃない。市民一人ひとりが自分に何ができるか、自分にできることを、直ちに行動に移せと訴えた。