ちょっといっぷく 第92話

第92話 大東亜戦争への道 真珠湾攻撃はだまし討ちだったか

昭和16年(1941年)12月8日、わが機動隊部隊の6隻の空母から発進した戦闘機43、水平爆弾機51、雷撃機40、急降下爆撃機49計183機からなる第一次攻撃隊は真珠湾に向かい空襲を開始した。

米太平洋艦隊は、大小17隻の艦艇に被害を被り、内8隻の戦艦が沈没あるいは大破するという壊滅的損害を受けた。

その12月8日がまたやってくる。順序からいえば、大東亜戦争への道としては、最後に取り上げるべきテーマだとは思うが、12月のこの時期に順序を替えて書いてみたい。

第二欧州大戦は1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって始まったが、ドイツ軍の圧倒的な強さに、イギリスは風前の灯火といったありさまだった。チャーチルが首相になったのも、連敗につぐ連敗でチャンバレンが政権を放り出したからである。チャーチルは「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずり込むしかない」と考えた。つまり、アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる、これがチャーチルのシナリオであった。

しかし、ルーズベルトは「絶対に参戦しない」という公約で大統領に当選した人である。

アメリカが日本に宣戦布告することはありえない。ならば日本がアメリカや支那を説得してABCD包囲陣・Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cは支那(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ)を作ったのである。

戦略物資(近代工業に必要な物資)とくに石油がなくなれば、日本は『何か』を始めるはずだと読んだチャーチルの計算は正しかった。ついに日本は真珠湾攻撃を行い日米開戦となった。(渡部昇一)

ここで問題になるのは、真珠湾攻撃がルーズベルト大統領に『だまし撃ち』と言わせるすきを与え、その結果、必ずしも一つにまとまっていたわけではなかった米国民を「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)の掛け声の下、一致団結させてしまった日本外交官の大罪がある。

真珠湾攻撃開始予定の30分前(実際には攻撃は予定より5分前に始まった)に日本政府の最後通牒は、米国コーデル・ハル国務長官に手交されるはずであった。「たった30分では奇襲と同じではないか」という議論もあろうが、当時は、すでに開戦前夜の状況が続いていた。対日石油禁輸は実行されていたし、事実上の最後通牒ともいうべき「ハル・ノート」が日本に渡されているしかも日本の暗号電報はすべて解読されており、ルーズベルトはじめ米首脳は、開戦の期日をほぼ予知していたのである。30分前だろうが、もちろん、完全に合法的である。

ところが、駐米大使の野村吉三郎(予備役・海軍大将)が実際にハル国務長官に手渡したのは、実に7日午後2時20分(ワシントン時間)。つまり、日本海軍による真珠湾攻撃が始まってから、すでに55分も経過した後だった。

ルーズベルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことない」ということを印象づけた。

開戦通知はなぜ遅延したのか。戦後、この問題について多くの研究と検証がなされたが、導き出された結論は「大使館員の勤務シフトと暗号解読の不手際、浄書のタイピングに時間がかかりすぎた。そして、その原因をつくったのは大使館側の怠慢であった、というのが定説となっていた。

1994年11月、日米開戦以来、53年目にして外務省は初めて「通告分遅延」責任が外務省にあることを公式に認め、国民に謝罪した。

ところがである。文芸春秋12月号に真珠湾「だまし撃ち」の新事実として驚くべきことが発表されている。書いているのは、斎藤充功という人である。

彼は八方手を尽くして裏付けの資料をあつめ、述べている。

開戦当日の12月7日(ワシントン時間)に新庄健吉陸軍主計大佐の葬儀がワシントンで行われ、その会場に野村、来栖の両大使が出席したために最後通告が遅れたというのである。

陸軍主計大佐、新庄健吉とはどれほど偉い人であったかは知らない。この人物の任務は「対米牒報員」要するにスパイの仕事を参謀本部から命じられていたらしい。

周囲の人や関係者の話、資料等を統合するとこうである。

両大使が身上の葬儀に出席した時には、すでに浄書された通告分が手元に置かれていたのではないか、あるいは葬儀の途中で両大使の手元に届けられた可能性もある。この葬儀がキリスト教式で、司式するアメリカ人牧師の悼辞があまりにも真に迫りアメリカ側からも多数の列席者があったが、誰一人として退席者がない中で中座退席することができず遂に宣戦布告の通達の1時間余の遅延となったというのである。

午後1時までに最後通牒を国務省に届けなければならない立場にありながら、新庄の葬儀に出席した両大使。それがため国家の命運を賭けた開戦の通告が大幅に遅れるという常識では考えられない、まさに万死に値する大失態であろう。

この時、両大使をはじめ関係者が責任を感じてただちに辞表を提出し、その事情を世界に明らかにすべきではなかったか。明治の外交官であればやったであろう『切腹』をして日本国民にわびるということでもしていたら、そのニュースは世界中をかけめぐり、真珠湾奇襲の悪評は消えていたはずである。

*参考文献=大東亜戦争への道 中村粲著、渡部昇一の昭和史 渡部昇一著、文芸春秋12月号 真珠湾「騙し討ち」の新事実 斎藤充功

(前島原商工会議所会頭)

2003年12月5日

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