ちょっといっぷく 第84話
ポカ第84話 敬天愛人
「天を敬ひ人を愛する」とは西郷隆盛(南洲)の思想である。
内村鑑三はその著『代表的日本人』の中で次のように述べている。
「西郷は、時に数日にわたり、日も夜も、山を歩き回ることがあった。こうしたときに、栄光に満ちた天の声が、直接に彼に臨んだのではあるまいか。杉木立の静寂の中で、『静かな細い声』が、次のように彼にささやいたのではあるまいか。なんじは、使命をおびて、この世に送られた者である。その使命の達成によって、日本と世界とは重大な影響を受けるであろうと。この声を聞かなかったとすると、彼はなぜ、あれほどたびたび『天』について書き、また語ったのではあるかが、わからない(後略)」
このあとに、西郷の遺訓から、
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天は人もわれも同一に愛したもうゆえ、われを愛する心をもって人を愛するなり」
「人を相手にせず、天を相手にせよ」
等の言葉を引用し、「すべてこれらは、直接に天から聞いたものであると、私は信ずる」と書いている。つまり西郷に対して天の啓示があったということだろうか。
明治元年の勝海舟と江戸無血開城の談判は西郷ならではできなかった。談判決裂のときは江戸八百八町は火の海と化したかもしれないのである。
西郷隆盛を調べていくうちに、従来胸に抱いていた疑問点や多少の誤解があったこと等が判明した。
なぜ僧月照と薩摩藩で心中しなければならなかったのか。
月照はかつて近衛公の密命で水戸に走った勤皇の士であった。爆吏から追い詰められて西郷に助けをもとめた。西郷と月照は愛擁して海に投じ月照は死んで西郷は助かった。この西郷の行為は「一身をもってかばふと約束した以上、かばひきれなくなったら、ともに死ぬ道しかのこされていない」これが西郷の哲学であろう。
征韓論について正しい認識が必要である。
明治6年朝鮮の排外気運が高まり、わが国への敵対意識を露骨にした。このような状況のなかで、征韓論が一挙に噴出した。
三条実美による原案は「わが国の誠意にこたえぬばかりか、かえって驕慢と侮辱の態度を示すに至った」と韓国を非難し、居留民保護のため若干の陸軍と軍艦を派遣し、その上で使節を送って談判し正理行動を説くべしというものであった。
これに対して西郷は「いまにわかに出兵すれば朝鮮は、日本は朝鮮を併呑するものと疑うであろう。これでは当初から朝鮮に対する徳義に反することになる。まず責任ある全権使節を派遣し、正理公道をもってわが国の意図を説き、朝鮮政府に非を悟らせるべきである」そして西郷らは自ら全権使節になることを主張した。全権としても一兵も従えず、正理公道のみをしんじて京城に乗り込み談判する。それでも朝鮮側が傲岸な態度を改めず自分を暴殺するような事態になれば、その時に初めて出兵すべし…これが西郷の征韓論であった。
「征韓論」という言葉は「韓国を征服せんとする論」であるがのごとき誤解を招きやすい。だが西郷は武士道の人ではあったが、征服欲とは縁なき人物であった。「西郷は征服のためのみに戦争を始むるには余りに多くの道徳家であった」と内村鑑三は『代表的日本人』の中で書いている。
無名の師を欲しなかった西郷は、出兵には正しい名分が必要であるとし、そのためには自らの生命をも敢えて犠牲にすることも辞さなかったのである。「正道を踏み国をもって斃るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず」とは南洲遺訓中の名言だが、彼の征韓論はこの精神の躬行実践を目指した主張と言えるだろう。
※中村粲著・大東亜戦争への道より
この征韓論は二転三転して、結局、岩倉と大久保の権謀術策が勝って、西郷等「征韓」派は辞表を提出して政府を去った。
なぜ西南戦争までいってしまったのか。渡辺昇一によれば、どんな偉い人でも、あるときからポカッと将来が見えなくなることがある。西郷が明治5年に山へウサギ狩りにいって、根っこか何かにつまずいて頭を強く打った。それから西郷は変わったという言い伝えが鹿児島にあるらしい。
征韓論に敗れて政治の第一線から退いたころ、この2つがいままで神様のような存在であった西郷が、西南戦争という余計な戦争を始めた理由だろうというのだが…。
西南戦争は国家的反逆であった。それが憲法発布で許されて名誉を回復し、あの上のに銅像が立つ。こんな例は世界中にない。当日は高位高官が並んで、盛大に除幕式をやった。
維新以降、庄内藩主や藩士に語った語録が「西郷南洲遺訓」(岩波文庫)として伝えられている。
その中から
※幾たびが辛酸をへて、志、始めて堅し。丈夫は玉砕するも、甎全をに語った愧ず。一家の遺事、人、知るや否や。児孫のために美田を買わず。
※事大小となく、正道をふみ至誠を推し、一事の詐謀を用べからず。
ことわざの「百術は一誠に如かず」と同義なるか。 筆者注
※生命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
(前島原商工会議所会頭)
2003年10月7日