ちょっといっぷく 第76話

第76話 春暖遠カラズ

 「春暖遠カラズ ワガ迎ウルハ何処ノ春ナルカ」

 昭和十九年末ヨリワレ少尉、副電測士トシテ「大和」ニ勤務ス

の書き出しから始まる吉田満著『戦後大和ノ最後』の一節である。

吉田満氏は大正12年1月生まれ、東大法科を繰上げ卒業、海軍少尉として大和に乗艦し艦の心臓かつ頭脳ともいうべき艦橋の中央に勤めた。右2メートルに伊藤整一第二艦隊司令長官(中将)、左1メートルに参謀長(少将)、新参の学徒兵として幸運というべきか戦況の全体を知る枢要な場所に位置した。

昭和20年3月29日総員3,332名を乗せて世界最大の不沈戦艦を誇った『大和』は呉軍港から必敗れの作戦にむかって出撃した。

この本は『大和』の出港から米の潜水艦及び圧倒的な航空機群の間断無き攻撃をうけ徳之島の北西洋上にて軣沈。筆者は沈没と同時に海中に放り出され漂流すること2時間、九死に一生を得て歴戦の駆逐艦『冬月』に救助された。その実体験に基づく生々しい証言であり貴重な記録である。

しかも文章が素晴らしい。なんとも名文なのである。年代があまりはなれていないことや、その文章力にひかれて3回も続けて精読したほどである。

渡辺昇一氏は「いま大人に読ませたい本」のなかで次のように言っている。

戦争中の日本人の気持ちを詩でうまく表現しているのは詩人・大木惇夫だが、散文となるとこの吉田満の「戦艦大和」の右に出るものははい。日本人がどういう感慨を抱いて死んでいったか。ということを、その時の雰囲気で書いている。

この「戦後大和ノ最後」は全部文語体で、しかもカタカナで書いてある。自分にもし金が余るほどあったら、これを全部石碑に彫って海の見晴らしのいいとこに建てたいような気がする。そうすれば普通の将校にもこれだけの文章力があったんだということ、また、どんな気持ちで戦っていたかということを示すことになる

九死に一生を得たこの人の文章はいまでこそ教科書にも載っているが、終戦の翌年にこれができあがったときには、さんざんな扱いをうけている。評論家の大御所小林秀雄の紹介で発表の機を得たものの、GHQの検閲にひっかかって全文削除、初版が出たのは、サンフランシスコ講和条約で独立を回復してのちの1952年、独立回復はその前年である。吉田満は復員してから日本銀行に入って青森支店長などを勤め戦後社会への問い掛けなどを書き続けていたが、1979年57歳で世を去った。

一節だけ紹介する。

   漂流者慰労ノ休暇ヲ賜リ、思イカケズ故郷ニ旅立ツ

   途次、電報ヲ打ツ

   遺書スデニ参上シタレバ、父上、母上、諦メ居ラルルヤモ知レズ

   喜ビノ心構エヲシツラエ給エ

 

   家ニ着ク    父、淡々トシテ「マア一杯ヤレ」

           母、イソイソト心尽シノ饗応ニ立働ク

   フト状差シニ見出シタル、ワガ電報

   文字、形をナサヌマデニ涙滲ム

   カクモワガ死ヲ悲シミクルル人アリト、ワレハ真ニ知リタルカ 

   ソノ心ノ無私無欲ナルヲ知リタルカ

   故ニコソ生命ノ如何ニ尊ク 些カノ戦塵ノ誇リノ 如何ニ浅マシキカヲ知リタルカ

このくだりを読んで、典型的な明治のオヤジを想像して微笑ましく、一方母上の慈愛にうたれて涙した。

あとがきで吉田満は問いかける。この本に書いてたことえおもって戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振る舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず、召集を忌避して、死刑に処されるべきだったのか。あるいは、極めて怠惰な、無為な兵士となり、自分の責任を放擲すべきであったのか。

戦争を否定するということは、現実にどのような行為を意味するのかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然すぎて無意味である。

誰がこの作品に描かれたような世界を、愛好し得よう。

徳之島ノ北西洋上、「大和」軣沈して巨体四裂ス

水深四百二十米

今ナオ埋没スル三千ノ骸

彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

で結ばれている。

(前島原商工会議所会頭)

2003年8月12日

 

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