ちょっといっぷく 第73話
第73話 東京裁判 その2
東京裁判がインチキであったことはわかっているが、日本側はそれに対する弁明を十分に準備していた。しかし証拠として採用すると、裁判が成り立たなくなるものがたくさんある。裁判所は片っ端から却下した。日本側弁護団としては、それを集めるためさんざん苦労している。裁判所側は権限で証拠を集めることができるが、弁護団にはそれができない。努力に努力をかさねて、日本中から弁護のための言い分を集めた。
それが次々に却下、どうせ却下されるからと提出しなかったものも沢山あったらしい。その書類がこのまま消えるのは惜しいと思う人が、当時の法務省にいて、それをそっくり法務省の一室にとっておいてくれた。それを小堀さんを中心とするグループが「これは絶対に世に出したい」と誓い合った。
後で本にして出版した、これが前号で述べた全8巻の大著である。
日本の言い分が後世に伝わっていない。そういう人達にとって、これは宝の山、これを読み解いた人が真の日本史を書くことができる。ここに日本の言い分が凝縮されているのだ。
これからは、日本の言い分にも耳を傾ける昭和史がでるようになるであろう。これは、そのための第一級の資料となる、とは渡辺昇一の言である。
東京裁判(正式には「極東国際軍事裁判」と呼ぶ)は、勝者が敗者を裁く中世風の野蛮なる「復讐」裁判であった。連合国側は絶対的な権力をもっていた。その中にあって日本側弁護団は悪戦苦闘しながら恐れずひるまず堂々と日本側の言い分を主張していることは、当時これだけ骨のある日本人がいたのかと知り思わず快哉をおぼゆるのである。
そしてそれは日本人だけではなかった。
被告一人につき一人ずつ米人弁護士がついていた。彼等はどちらかというと裁く側の国の人間であるにも拘らず堂々たる日本弁護の論陣を張っているのは驚嘆に値する。
例えばローガン弁護人である。
真珠湾攻撃が日米戦争への導火線になったのでなく、日本に対する列強の経済圧迫の結果であるとの立場で冒頭陳述を行っている。日本は平和的に解決しようと外交交渉によって忍耐強く追求したことは、永遠に日本の名誉となるであろうというのである。列強の苛酷な締め付けは、自尊心をもついかなる国民も採ったであろう戦争という行動に出ざるを得ないように仕向けられた。
最後に英国内閣閣僚オリヴァー・リトルトン氏及び合衆国前大統領ハーバード・フーヴァー氏の言説を引用している。即ち両氏はそれぞれ「アメリカが強いられて日本と戦ったと言うならば、これは歴史上の笑草であろう」「もしわれわれが日本人を挑発しなかったならば決して日本人から攻撃を受けるようなことはなかったであろう」
東京裁判の全公判中で最も注目すべ挿話の一つは、ブレイクニー弁護人の爆弾発言があった。その内容を一言に要約するならば、広島・長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格はない。というものだった。
この発言が裁判所全体にとってどんなに衝撃的であったかは、日本語への同時通訳がにわかに停止し、最後まで復活しなかったことからもわかる。それは機器の故障などの技術的な理由からではない。日本語に通訳すれば日本語の法廷速記録にとどめられて後世に伝わるであろうし、法廷の日本人傍聴者の耳に入り、そのうわさはたちまち巷間に広がっていくだろう。そしてその発言にひそむ道理の力は、反転してかかる非人道的行為を敢えてしたアメリカという、国の国威と、欺瞞に満ちたこの裁判所の威信を決定的に傷つけ、原爆の被害を受けた日本人の憤激の情を新たに著しく刺激するだろう。
裁判所はなんとしても回避したい。そこで意図的に同時通訳は瞬時に停止せしめられ、日本人傍聴者には現在そこで何があったのか見当がつかない、という仕様となった。
一般に人々がその弁論の内容を知ったのは、実にそれから36年余を過ぎた昭和57年の夏、長編記録映画「東京裁判」が公開上映された時に、その字幕を通じてのことである。
ブレイクニーの主張をもう少し続ける。
「戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的なのだ。つまり合法的な人殺しなのである。殺人行為の正当化だ。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問われなかった。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、われわれは広島に原爆を投下したものの名をあげることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前もわれわれは承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。われわれもそう思う。それは彼らの戦略行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
なんの罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下したものがいる!この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる!その者たちが裁いているのだ!」
この件りは、英文の速記録には載せられてあるが、昭和57年までは一般に知られることのないままに歴史の行間に埋没していたわけである。
(前島原商工会議所会頭)
2003年7月23日