ちょっといっぷく 第62話
第62話 他力本願
かつて「生き残り会」会議のある時、「『他力本願』であってはならない。自力再生こそ我々の目指す目標でなければならぬ」と訴えたことがあった。これについて、松田信也さんを通じ、安養寺の前住職菊池文喬さんから「他力本願の意味を間違えている」と指摘があった。と忠告を受けた。
それ以来、ずっとこの「他力本願」の意味について心の中にひっかかるものがあった。
1968年2月6日、時の農相・倉石忠雄が雑談の中で「わが国の憲法は他国の信義に信頼して、わが国の安全と平和を維持すると決めているが、これは親鸞聖人の他力本願だ。云々…」という発言があり、国会で追及され、空転した事件があった。
浄土真宗・西本願寺から「宗祖親鸞を冒涜するもの」として抗議を受けた。親鸞の教義である「他力本願」を「他人まかせ」というような意味で誤用したというのがその理由である。
さらに1987年11月1日、自民党総裁に選ばれた直後の竹下登が、NHKのインタビューで「地方の活性化の土台は四全総。今度は他力本願ではなく…」と発言し、同宗派から抗議を受けたが、竹下は浄土末寺の門徒代表だった。
この2つの事件を知ったのは、ずっと後になって『日本を決めた政治家の名言・妄言・失言』(土屋繁著・角川書店)を読んでからのことである。
このことから今まで考えていた「他力本願」の意味、即ち「他人まかせにする」「神頼み、仏頼みで自分で積極的な努力をしない」という誤った解釈をしていたことにやっと気付くのだか、では「他力本願」の本当の意味はとなると、明快な答えが見当たらなかった。
日本の浄土教の始祖、法然、そして真宗の確立者である親鸞、蓮如に受け継がれる「他力本願」の奥義が、簡単に解明できるとは思わないが、宗派を超えて『他力』の言葉の意味を知りたいと祈りにふれ考えていた。
今回五木寛之著『他力』が発刊され早速読んでみた。
この本は、困難な時代を生きるための心得とでもいうべき短い説話を、100項目語りつないだものだが、仏法を深く理解する五木氏ならではの思索が短い文章の一つひとつの味わいを濃くしている。
『他力』について五木氏は、蓮如が使った本来の意味にそって現代的意味を次のように説いている。
スポーツ選手が自分でも信じられないような力を発揮して金メダルを取ったとき、本人も「誰かが背中を押してくれたような気がする」と語る。
努力を払って天命を待つ心境になったら、いい結果が得られた。いずれの場合も、『自力』の努力の成果のように見えるけど、実は様々な好都合の条件、つまり『他力』の後押しがあってそうなったのだと考えるのを忘れてはならない。その謙虚な心の持ち方が大切というのである。
他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、自分の生き方を支えているという考え方であって、自分ひとりの力でやったと考えるのは浅はかなことだ。そういう心の持ち方をすれば、いくら努力をしても仕事がうまくいかないときでも、自暴自棄にならず、「どうも他力の風が吹いていないようだな」と受け止めて首をすくめて待つという心のゆとりができるというわけだ。
自らの体験で、2度の生死にかかわる急病に罹ったとき、初めて出会った名医に命を救われたこと、事業で困難に遭遇したとき、人生の岐路に立たされたとき、その時々に不思議と、真からの助言者や協力者、力強い味方が現れて危機を脱出したことを思い出す。
『人は自分のみでいきるにあらず』他人から生かされておるのだという実感を味わった。
正しく他力の風が吹いているのだろう。
ご指摘いただいた松田さん・菊池さんに感謝。
(前島原商工会議所会頭)
2003年4月22日