ちょっといっぷく 第50話
第50話 温故知新
個人的な話で誠に気がひけるが、前号に引き続き海軍にまつわる話を2つ。
昭和19年、太平洋戦争の真っただ中、私は学徒動員で名古屋の三菱航空機製作所で陸軍の重爆撃機『飛龍』の製作に当たっていた。
当時理科系(私は応用化学専攻)の学生生徒は、徴兵猶予の制度があり軍に徴発されることはなかった。戦局が激しさを増してくるに従い、文科系は学徒出陣で次々と戦場に駆り立てられた。私たちは徴兵の義務こそなかったが、工場は地震と空襲で滅茶苦茶にやられ飛行機の生産どころではなかった。
丁度その頃、海軍予備学生の募集があり、理科系だっていつ徴兵猶予が解除になるかも分からないし、それなら陸軍より海軍がよろしかろうとごく自然に応募した。
先ず学科試験があり、発表を見にいった。張り出された名前を見ていったが、名前がない。自分では自信があったのでもう一度見直すと、冒頭に落第者の氏名発表となっている。つまり氏名の書いてない者が合格というわけ。海軍にはこういうユーモラスな面があった。
あとで聞いたところでは、島原の実家に憲兵隊が役場の人と一緒に、なにやら調べに来たらしく夏休みに帰省したら「お前、なにか悪いことをしたのではないか」と親父に言われた。これは海軍の士官になる候補者について身上調査が行われたものらしい。
学科試験に合格したあと身体検査があり、軍医が私の耳をみて「『鼓膜』のない者は、海軍さんは駄目なんだよな。爾後の検査受ける必要なし。まっすぐ検査官のところに行け」と海軍少佐か中佐かの検査官の前に行ったら「海軍はあきらめろ」といわれて失敗。おかげでなぐられもせず終戦まで軍隊経験はない。
昭和18年6月8日、瀬戸内海の離島に仮泊中の戦艦陸奥の火薬庫が突如爆発、一瞬にして海底に沈没した。
陸奥は、長門と並んで八八艦隊の主力艦、16インチ(40センチ)砲をそなえ(因みに大和・武蔵は18インチ)、4万トン級の超々弩級戦艦であった。爆沈当時の艦長は、三好海軍大佐で、直立不動の姿勢のままで遺体が収容されたと聞く。
戦後三好大佐夫人は、陸奥の乗組員遺族を全国一軒一軒訪問、慰霊の旅を続けられ、これは新聞・テレビでも報道された。
実はこの故三好海軍大佐の娘さんが私の従弟(親父の妹の子供)、浦達也の嫁にあたる。達也の父は、広島大学文学部教授、文学博士浦廉一で、戦前広島高等師範の教授をしていたので、旧制島原中学にも山嵐こと国漢の北島先生、漢文の豊増先生等々の教え子がいた。
達也は慶応経済学部卒後NHKチーフディレクター、東大講師などを経て、本業は評論家、本職は大学教員の二足のワラジを履いている。
さて『ちょっといっぷく』も本稿で区切りの50回を数え、その間沢山の方々から身に余る激励を受け本当に感謝にたえません。
特に商店街を回って若い人と接すると、先輩方のものの考え方、経験などをもっと聞きたいと言われて、今の混沌の時代、探究心にもえながら何かを成そうとする志のある青年がいることを知ってホッとする。
『温故知新』は論語の名言の一つである。ふるきをたずねて、新しきを知ると読む。広辞苑では、ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得ることとある。こういう精神が今の世は必要かもしれない。
ジェームス・三木からもらった色紙に「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」伊達正宗の詩だと思うが、残余の人生を楽しむためには、も少し長生きして、人生の総仕上げを果たしたい。
しばらく充電のため一服させてもらいます。永い間のお付き合い、誠にありがとうございました。
(島原商工会議所会頭)