ちょっといっぷく 第49話

第49話 海軍記念日

 

友人からすすめられて、伊藤正徳著「大海軍を想う」という本を読んだ。

今時軍国主義や好戦思想を喚起するつもりはさらさらないが、著書が序文で述べているように、世界が日本を「三大海軍国の一つ」として公認した事実があり、この資源の乏しい国、100年遅れてスタートした小さな国が、よくもかかる大海軍を作り上げたものだという、日本民族の誇りを想うのである。

阿川弘之は、『海軍こぼれ話』の中で、軍艦旗の話をしている。聖心女子大出の若いお譲さんが、横須賀の海上自衛隊見学で「おふねの後の方に上がっている、朝日新聞の旗みたいなの、あれ、何でございますか」と聞かれてガックリ。この人たちの世代は、高校で日本史を教えるとき、日本の軍隊は悪なり、日本陸海軍のことなんか全部忘れろと、よってたかって棚上げしてしまった、と嘆いている。

しかし事実を事実としてとらえ、「悪」は悪と批判するのが正しい歴史認識であろう。軍艦は日本の誇りであったが、人の面でも世界三大国に伍して誇りに値する将師がいた。しかも彼等は傲らず、常に自ら足らざる所を外に学んで大成を志して倦まなかった。

3名の海軍大将に登場していただき、その寸描を語りたい。

最後の海軍大将といわれる井上成美提督は一時期江田島の兵学校長をつとめた。彼の教育方針は、世間に出てすぐ役にたつような教育は、いわゆる丁稚教育であって、情勢に大きな変化が起こった場合、自ら判断し、自ら事に処することが出来ない。兵学校の教育は20年後30年後真に日本の運命を背負ってたつ人材を育てることだ、として当時、敵性語といわれた英英辞典による英語教育を続けさせた。時流に眩惑されぬすぐれた教育者も日本には必ずいる筈と。これは阿川弘之の文春でのエッセーである。

大正3年から10年まで、8年の歳月を経て漸く成立した8・8艦隊即ち戦艦8、巡洋艦8、各種補助艦百数十隻を第一線に常備する「大海軍」の計画は、世界に最大の話題を投げかけていた。これは4代の内閣に海軍大臣として連なった加藤友三郎(後首相、元帥)の尽力に負うところが大きい。その加藤が1921年ワシントン軍縮会議に赴いて自らの計画をご破算にし、わずかに2隻(長門、陸奥)だけを残して他をすべて廃棄する協定をむすんだ。

このため三菱長崎造船所では5500人の人員整理を断行、戦艦土佐(4万トン)は立神ドックから呉まで曳航されて実験標的にされ自らの手で撃沈されたのは、なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」に詳しい。

これは、自ら計画案を成就させたものの、日本の財政がこれに堪えないことを見極めていたのでこの協定を承諾したのだという。

今、これ程高い識見と決断力のある政治家が存在するであろうか。疑問である。

明治38年5月27日~28日にかけて、東郷平八郎率いる連合艦隊は、戦艦8、重巡10、駆逐艦9、特務艦6のロシア・バルチック艦隊を対馬沖に迎え撃ち、文字どおり全滅させた。

日本海海戦である。旗艦『三笠』の檣上高く揚がった「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」のZ旗は余りにも有名である。

世界海戦史において、一回の海戦にこのような全滅的完勝を挙げたものは空前絶後だそうだ。救国の提督と、勇敢なる将兵が、祖国の防衛に尽くした忠誠と勝利の歴史を忘れていいという理由はなかろう。

終戦までは、5月27日、この日を『海軍記念日』として全国民こぞって記憶にとどめていた。

イギリスは決して好戦的な国ではない。軍国主義の政治を最も強く否定する民主主義、議会主義の国民である。それでも、トラファルガル・デー(1805年、ネルソン提督がフランス・スペインの連合軍を撃破して、イギリスの海上覇権を確立した海戦)は200年近く連綿として祝賀され、ネルソンの名を知らない児童は一人もいない。今の日本に、東郷の名を知っている児童は100人の中に何人いるだろうか。民族の輝かしい歴史の回顧と、その大功労者に対する謝恩の心とが独立民族の将来を指導する不滅の道標として尊ばれている。ナポレオンを撃破したクニャージ・クヅーゾフ元帥が今もロシアの英雄第一人として、スラブ民族の魂の師表と仰がれるのも、全く同じことではないか。

(島原商工会議所会頭)