ちょっといっぷく 第98話

第98話 昭和生まれの歌(1)

海行かば

水漬くかばね

山行かば

草むすかばね

大君の

辺(へ)にこそ死なめ

かえりみはせじ

明治の軍歌といわれる『海行かば』の一節であるが、正確には、万葉歌人大伴家持の作詞で軍歌といえるか私には分からない。

過ぐる9月15日、故高橋三徳先輩の葬儀に参列した。静まり返った場内に、突如荘厳な調べの『海行かば』の曲が流れてきた。

思えば高橋先輩の青春は、戦さのただなかで、軍歌そのものであったろう。遺族のお話では、よくこの歌を口ずさみ、亡き戦友のことを思い出して涙していたそうである。

我々大正生まれにとって、これは正しく「慟哭の歌」であるのだ。

阿久悠(作詞家・作家)は、私の履歴書のなかで次のように述べている。

「ぼくは国というものは、ずっと戦争をしつづけているものだと思っていた。つまり、戦争をしていることが平時であるという感覚である。」

彼は昭和12年生まれ、国民学校3年生になった年の夏に戦争が終わった。彼は言う…「戦後は明るかったというのは、チョコレートにしろ、流行り歌にしろ、映画にしろ、野球にしろ、封印されていたものがいっせいに飛び出してきて、それらと初対面のよろこびを感じたからであった。

ぼくらは、戦争中が暗いと思っていたわけではなかった。戦争はあたりまえと思っていたから、日の丸を振って出征兵士を送り、『おめでとう』を言葉通りに解釈し、戦死者の遺骨を迎える時には『名誉』」と信じて、葬列の尻尾にくっついていた。死ぬことすらも普通だった。

その頃が暗い時代であると気がついたのは、戦後になって比べるものを手に入れてからである。

戦後になってあらゆる拘束から解き放たれ、流行歌を大声で歌うことが許されたり、赤いスカートをひるがえして闊歩する女性が認められることが世の中の明るさだと知って、初めて、ああ戦争中は暗かったのだと思った」

さて、大正生まれのわれわれはどうであったか。大正生まれとは敗戦の時19歳から33歳だった人たちである。

思えば、この世代が第一線の兵士として戦争の辛酸をなめた。戦争の悲惨さを知るがゆえに決して好戦的ではない。

北野中学(旧制)の同級生に松本善明君がいたが、彼は海兵から一高、東大法学部を出て、弁護士、衆議院議員となり日本共産党の大幹部として活躍したことは、ご存知のかたも多かろう。

旧制中学を出たころは、海軍軍人を目指していた軍国少年だった。

われわれとほぼ同年輩で田英夫がいる。通信社、ニュースキャスターを経て参議院議員となり平和運動にもかかわっていくのであるが、彼は海軍予備学生出身で少尉に任官、震洋特別攻撃隊に配属され、川棚町の魚雷艇訓練所で訓練を積んだ。

海軍軍司令部が考案した『震洋』は、44年4月に誕生、通称「④(マルヨン)」。当初1人乗りで、後に改良を加えて2人乗りとなる。全長5メートル、約2トン。物資が欠乏するなか大量生産に適したベニヤ板製のモーターボートで、運用のトラックのエンジンを搭載、前部に250キロ爆弾を積んで、約30ノットで敵艦に体当たりする。

—つづく—

2004年12月8日