ちょっといっぷく 第94話

第94話 大東亜戦争への道 日露戦争(2)

 

※日本軍将兵勇戦奮闘・橘大隊長

日本軍が良く戦ったのが勝利の原因であることは言うまでもない。内容は軍閥興亡史に詳しいが、島原半島千々石町出身の橘周太大隊長の奮戦ぶりが書かれている。

遼陽会戦のとき、首山堡において敵陣に突入、身に数弾をうけて「天皇陛下と国民にお詫びー」とまで言い終わって息絶えた。

「魂ここに止まって塁を守る」と遺言したというのは、後の作者の言葉であるが、中佐の心情はそれに相違なかった。少尉時代から、軍人への勅論五か条を毎朝復誦し、部隊にある時はこの復誦を隊の早朝の日課として20年欠かした日のなかった精神家橘周太は、その優れた剣と共に、つとに模範将校としての兵の尊敬の的であった。

故郷に橘神社がある。その故山の近くに無名の湾があったのを、海軍水路部が『橘湾』と命名して今日に残したもの、この勇士の名を後世に伝えるための当然の配慮であった。

*諜報戦での明石元二郎(当時、大佐)の貢献。

日露戦争における明石の働きは「数個師団に匹敵した」と言われ「日露戦争の勝因の1つは明石大佐であった」とされた。明石大佐のことは、だいぶ前『ちょっといっぷく』に書いた。

*日本軍の画期的『新技術』について書いておかなければならない。

海軍の「下瀬火薬」を用いた新砲弾。陸軍の機関銃の導入である。

日本海海戦で日本が完全勝利を可能にしたのは下瀬火薬と呼ばれる新式火薬であった。この火薬は海軍の技術であった下瀬雅雅允の発明だが、爆薬の歴史が変わったといわれる程の代物で現在のTNT火薬は、下瀬火薬の改良品であるといっていい。その炸裂威力、爆風の物凄さ、3000度にのぼる高熱のガス、甲板も大砲も熱くなって近寄ることさえできなかったし、船の塗装は燃え出した。この砲弾を受けたバルチック艦隊は戦闘力を失い、わずか30分で戦闘隊形がくずれてしまった。これ以後世界の海軍は『大艦巨砲時代』に突入する。

世界最強といわれたコサック騎兵になぜ勝ったか。

日本騎兵の創設者、天才といわれる秋山好古の逆転の発想がある。当たり前に戦って、コサックに勝てるわけがない。だから、彼らの姿を見たら、ただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙ぎ倒してしまえ、と考えた。

秋山は機関銃という最新兵器を導入した。秋山の部隊は無敵であった。最終決戦となった奉天大会議ではついにコサックは現れなかった。機関銃は世界最強のコサックの突撃を封じ込めてしまったのいである。

日露戦争の陸戦は、旅順の攻略戦と、遼陽・沙河・奉天の三大野戦が世界戦史に名を留めた。旅順攻略戦における死者は約15,000名、戦傷者約44,000名。二〇三高地には、日本兵士の死体が累々と折り重なっていたわけだが、このような第三軍の奮戦は、乃木将軍の存在なくして理解できない。乃木将軍の2人の息子も戦死している。出征するとき、家族に「遺骨が1つ届いたからとて、あわてて葬式をだすな。3つ届いてからにしろ」と言い置いているから、この戦争では自分はもとより、息子たちも死んでもいいと覚悟していたのだ。こういう将軍を頭にむかえて、第三軍の兵士たちは敢然として突撃していったのだ。

将軍の幕僚たちは無能であった。士官学校を優秀な成績で卒業し、ヨーロッパに行って最新の軍事学を勉強しているが、現場のことは何一つ知らないエリートなのだ。こういうエリートに囲まれた将軍は不幸であったとしか言いようがない。一部に乃木希典に対する悪評があるやに聞くが、『腹をくくった』乃木将軍はやはり優れた司令官であった。

奉天大会戦

順路を滑落させた乃木将軍率いる第三軍は満州軍に加わり奉天に向かった。連敗を続けた敵将クロパトキンは、優勢な兵力をあわせて約60万、戦闘は2月下旬に始まり激戦が展開されたが、わが軍は3月10日奉天を占領した。奉天会戦は日露戦争中最大最大の陸戦であった。戦中はこの日を陸軍記念日として記憶に留めた。

日本海海戦

東郷司令長官率いるわが聯合艦隊は、ロジェストヴェンスキーを司令長官とするロシアバルチック艦隊を殱滅した。5月27日、旗艦三笠の檣頭高く掲げられた「皇国の興廃この一戦にあり。角印一層奮励努力せよ」のZ旗は有名である。かくて激戦2日、撃沈された敵艦21隻、自沈したもの5隻、中立国港湾に逃げて抑留されたもの6隻、バルチック艦隊は正しく全滅した。

司馬遼太郎はその著「坂の上の雲(6巻あとがき)」で言う。

日露戦争は陸戦においては決して買ってはいなかった。負けてはいなかったが、押し相撲にすぎなかった。が、日本軍は一局面ごとに国際世論は「日本が勝ち、ロシアが負けた」と世界に向かって報じた。日本が情報操作が上手であったわけではない。世界中の同情が弱者である日本にかたむいていたし、帝制ロシアの無制限なアジア侵略に重大な危険意識をもっていたことが日本に有利に働いた。

日露戦争を政略・戦略・戦術ぐるみの一切合切の規模において、日本を勝利に締めくくらしめたのは、日本海海戦における日本側の完全以上の勝利によるものであった。この一戦で、両国の複雑な戦争計算がはじめてただ一つの共通の答えを出した。

『ロシアが完敗した』

米軍の斡旋により、ポーツマスで日露両国の講和会議が開始された。9月5日調印された条約の大要は①朝鮮に関するわが自由処分権、②満州からの露軍撤退、③遼東半島の租借権と東清鉄道支線の取得、④樺太割譲等々であった。

このようにして日露の死闘は終局した。これによってわが国は満州と韓国をロシアの手中から救い出すとともにわが国自身の独立と安全を守り抜いたのである。

そして、日本の輝かしい勝利が、アジア後進諸国に与えた衝撃は甚大で、全アジアを覚醒、奮起させ民族独立運動へと広がっていくのである。

※参考文献=軍閥興亡史伊藤正徳、渡部昇一の昭和史・大東亜戦争への道 中村粲、坂の上の雲 司馬遼太郎

 

(前島原商工会議所会頭)

2003年12月16日