新春2(平成26年元旦号)

若者へ

 

われわれの青春時代は「鶏頭となるも牛尾となるなかれ」大きな牛のシッポにしがみつく人生より、小さくとも一国一城の主(あるじ)になれ、と自主独立の精神を叩き込まれた。今の世の中は、独立しようにも社会が複雑で簡単に独立はできず、安定志向が強いのであろう。考えられることは、独立の場合リスクがともなう。一度失敗すれば二度の再起は困難、したがってリスクをとろうとしない。だが若者が新しいものに挑戦する意欲を失えば、国も活力がなくなるし、企業も日本経済も再生しないのではないか。

新たに起業をめざす諸君のために参考になればとの思いで、日ごろ考えていることを二~三書く。

リスクは再起可能の範囲にとどめるということが鉄則である。無謀なリスクは当然ながら避けるべきである。

わたしが会議所の会頭時代に、お菓子屋さんの組合の総会に招かれて出席したときの話がある。関東しまばら会だったか忘れたが、副会長の女性から島原の物産を買って郷土発展のために協力せよというが、東京にはなんでもあるし、島原にしかないもの、一体なにがあるのかな、という話になった。以来わたしの頭のなかに大袈裟なものでなくとも、身近で実現できそうなものはないだろうか、ずーっと考えていた。

思いついたのは、大きな話ではない。小さなリスクで、小さな挑戦についてである。例えば島原に行ったらこんなものがあった。手軽に買えて、味もいい、値段もそこそこで、なんと言っても島原のオリジナルでなくてはならない。

わたしは、今でも「水戸黄門」の大ファンであるが、快刀乱麻、強いのなんのって、めったやたらに悪人どもを懲らしめて、最後にでてくる格さんの「この紋どころが目に入らぬか」の胸のすくような啖呵、筋書はいつもかわらぬパターンではあるが、爽快である。ヒントはここにあった。

島原は五家の殿様が君臨した城下町である。五家の殿様にはそれぞれ家紋がある。その家紋をデザインして活用できないか、と考えた。

例えば、島原城薪能(とは限らない、広く県外の観光客も含めて)に来客された人達が記念のお土産に買って帰ろうかという品物。あまり高価なものでなく、せいぜい800円か1000円程度のせんぺいが思い浮かぶのだが、そのせんぺいに五つの家紋をいれて発売したらどうか。深江町はどはっせん(落花生)の産地ではなかったか。この豆を使用し、九十九島せんぺいに匹敵するくらいのパリッとしたせんぺい。せんぺいの名前は「この紋どころ」とする。この話を菓子組合総会の席上で申し上げた。

あとの懇親会の席になって、組合員のひとりがわたしのところにきて、「良い話を聞いた。わたしがやってみようと思う」と言う。「大いに結構、やってみなはれ」と応えた。ところがあとがあきまへんでしたなあ。この人いわく「そいばってん、金型代が要る」と。「いくらかかっと」と聞いたら20万円くらいという。この話は結局、日の目を見ることなく終わってしまったが、20万円くらいの投資であれば、失敗しても埋め合わせは可能だとおもうのだが…。

どだい元手もいれずに儲けるなんて、そんなうまい話があるはずはない。結局は、チャレンジ精神の不足だろう。わたしなら金型代はいうまでもなく、販売促進のためには、宣伝のためにタダで食べてもらうくらいの覚悟がなければ成功するはずはない。小さなリスクを怖れてなにもしないのが一番いけないのではないか。

このことに関連する話がある。東京から来る友人から、時々お土産を頂戴するが、その紙袋の色彩が垢抜けしているというか、センスがあるのである。中身はともかく、その袋を持ち歩くのが正にブランドなのだ。

殿様の家紋となると、上品で重厚さがいる。昔JRの特急や一等寝台車の色は、特別な色であった記憶がある。郷愁を思い出させる色彩がいい。

たまたま「仕事の哲学」という本の新聞広告を目にした。それによると、おみやげを買うとき、偉くなる人の習慣が書いてあった。平社員は、道すがら買う。部長は有名ブランドの銘菓、さて役員は、というと包装紙で決めるとあった。

もう一つは、入れる箱についてである。今は、幅の広い、平べったい箱詰めが普通であろう。そこで思い切って立てたまま並べる。そうすれば簡素でカッコいい。粋でオシャレ感覚をねらうのだ。

これらの話は、ホンの一例にすぎないが、最初から大袈裟に考えなくても、今ある設備で、ちょっとした発想を転換するだけで、新しいものが生まれるチャンスはある。若者の勇気とセンスに期待したい。

 

起業・拡大 その要諦は

 

企業を起こしたり、拡大するとき金がいる。自己資金のある人は別だが、多くは銀行からの借入金でまかなうことになる。そのとき個人保証を求められる。失敗すれば、無限責任を負わされる。つまり永遠に社会から抹殺されるのである。これでは若者が挑戦しようとする意欲が生まれるはずはない。勿論貸す側の論理も充分わかる。それでも意欲のある企業家がふたたび挑戦できるようにする必要があるように思う。

その点、金融機関もかなり進化しつつある感じを受ける。そもそも金融機関のあるべき社会的使命とは、企業の成長力を見抜いて育てることだと思う。そのためには、その企業の将来を見通す「眼力」が求められる。

われわれが係った再建会社も立派に再生したが、今までは見向きもされなかった。だが、やがて金融機関にとっても優良得意先になるはずである。

もう一つの問題は、担保の問題がある。一般的に金を借りようにも担保がなくて事業拡大を思いとどまっている企業もあると思う。

我社の実例を紹介しよう。新車を2台購入するため4千万円の資金を必要とした。当初、県信用保証つきで話をすすめていたが、前の保証債務が残っているとかで引き受けられない、とことわられた。政府系の金融機関といろいろ協議の末、購入予定の車(動産)を担保にということで決着した。

これは、わたしの経営者人生の中でも初めてのケースで、「エッそんなことができるの」と驚いた次第である。動産担保では、動産そのものを使用するにも全く不便はないし、設定費用もわずかですむし、さらには保証料0なのだ。このメリットは大きい。

借りる側の話についてちょっとふれておこう。原則として、支払の見通しの立たない金を借りることは、絶対だめだ。これは当然であるが、新しい起業の場合は、失敗しても再起できる範囲に止めることである。

とはいえ、世の中には、わずかな新規投資にも乗ろうとせず、折角のチャンスを逃す人もいるのだ。前進しようと思ったらリスクはつきもの。始める前から失敗を恐れていては何もできない。

リスクを取るべきときはリスクを取って、果敢にチャレンジするのが企業家魂である。

 

「暁鐘」発刊

 

サブタイトルは“万里の波濤を乗り越えて”という題名で私の本を発刊することにした。この本は、普賢噴火時、幾多の苦難を乗り越え、住民が一丸となり、危機を突破したこと、瀕死の企業を10年がかりで蘇生させた二つの実例を、赤裸々に解明した物語が中心である。企業の再生については、再生したことをみなさんに伝えるのが目的でなく、再生の方法について書いたつもりである。

この二つの会社は今や、苦闘の甲斐あって、長い暗澹の闇から抜け出し、夜明けを迎えようとしている。今からが真の出発であり、高らかに進軍ラッパならぬ暁の鐘を鳴らそうではないかとの意をこめて「暁鐘」と名付けた。

 

4つの動機

 

①子供はおやじの背中を見て育つという。我が家の息子は、すでにおやじを越えて一人前に育っているので今更おやじの出番はない。

思うに、人間死んで100年もすれば“ちり・あくた”である。将来少なくとも孫たちや身内、それに苦労を共にして、わたしと夢を共有する社員たちへ、今から降りかかってくるであろう困難、障害に対して、じいさんたちは、このような覚悟で、このような方法で難局を乗り切った。その実績を記録に残して参考にして欲しいとの強い思いがある。

②潰れかかった会社を再建するとき、金融機関や取引先が不安をもつのは当然である。そのためにいちいち相手先ごとに今までの経緯やわれわれの経営方針等について説明する必要があった。また事実に違う誤解もあった。

それに、まじめに働く社員諸君にも本当のことを知ってもらいたかった。ならば、すべての傷害になる条件をクリアして、正々の旗の下、新しい出発をする今こそチャンスと考えた。

③会社も次の飛躍に備えねばならない。その戦略として志を同じくする同士が一つになれば大きなパワーになる。そのためのPR用に利用できる。

④発刊の直接の動機は、沢山の友人・知人・島原新聞読者のみなさんの後押しである。

 

内容について

 

本の冒頭、お二人に「推薦の言葉」を頂戴した。

お一人は、郷土の誇りである東京の田代弁護士先生から、もう一人は公私ともにご親交頂いている清水眞守さんである。

私にとっては、分不相応の賛辞で、まことに面映い思いで恐縮しているのだが、殊に田代先生の文章には、本の内容について要旨がまとめられているので、わたしの説明は割愛して、原文のまま本紙上に転写する。

 

◇ ◇

 

付録1として、平成25年元旦号島原新聞掲載の私の寄稿文、付録2で、島原新聞創刊100周年を記念して100回にわたり連載された“ちょっといっぷく”の寄稿文を全文載せている。

前半は読む人に退屈させないよう出来るだけカラー写真を取り入れた。

 

編集後記

 

この本の原稿を書きながらつくづく思ったのは、私の人生は沢山の苦難もあったが、そのつど助っ人が現れ助けられた。これは運がよかったとしか言いようがない。普通の人の数倍の経験をさせてもらったし、もちろん長生きしたこともあると思うけれど、幸運に恵まれて「良く生きた」といえるのではないかと自負している。

考えてみると、私にそれほどの能力があったわけではない。沢山の人達に支えられ、助けられてたどり着いた人生であったような気がする。あらためて『出会い』つまり人脈のありがたさを知った。『運』と『人脈』についてふれてこの稿をおわりにしたい。

松下幸之助は、経営者になる条件を一つにしぼれば、それは運である、というが、これは松下さんでこそ言えることばだと思う。我々に分かりやすい話に、元佐賀県知事であった井本勇氏のことばがある。「一生は運と縁と努力」これは分かりやすい。

しからば、運はどのようにして掴むのだろうか。私の考えでは、先ず動かなければつかめない。それに常に考え、四六時中、情報のアンテナをはっておく。ひっかかったら前髪をにぎって掴め、そうしないと折角の運も逃げてしまう。笑い話であるが、私みたいに前髪のない人はどうするんだといわれそうだが、そのときは体ごと掴むしかない。

人脈(人間関係)の大切さについては、この本の中でも詳しく書いている。たまたま「致知」という雑誌に、ウシオ電機会長牛尾治朗氏のことばがあった。経営は単に大学で経営学を学んだり、ITに詳しいからできるといったもんじゃない。さまざまな苦労を重ね、複雑な人間関係に処する中で培われていく職人芸である。松下さんも経営学は教えられても経営は教えられるものではない、といっている。

風雪人を磨く。自己鍛錬しか道はない。

 

 

島原新聞 平成26年元旦号掲載