新春雑感2

◆成せばなる自信

 

栄光と挫折と

 

いまも続いているのだろうか、「FMしまばら」の放送で「ターニングポイント」という番組があった。それに出演したとき、請われるままに自分の人生について語ったことがある。そのときの番組の女性スタッフが「波乱万丈の人生だったんですね」といった。

波乱に富む人生は、学歴からはじまる。

わたしは、現在諫早市内の有名なM病院の評議員をしているが、この病院でわたしの経歴書をみたら大阪府立北野小学校卒業とある。事務局の単純ミスだと思うが、大阪に北野小学校という学校は存在しない。

小学校は、島原第三小学校の卒業である。低学年のころから教科書をわすれたり、行儀作法もわるく、勉強のほうはまあまあだったが、操行は上中下のなかの中であった。それが6年になったら操行の点が上になり、おまけに「松平賞」まで頂戴した。松平賞は殿様からの褒状で大変名誉ある賞だと聞かされた。褒状の内容は、「品行方正、学術優秀ナルヲ以テ」とあるが果たして品行方正であったかは疑問である。

旧制島原中学へ進学、4年の1学期まで在籍したが、夏休みのとき、大阪の旧制北野中学(現大阪府立北野高校)へ転校試験をうけて編入学することになる。

北野は、当時東京府立一中(現日比谷高校)と並ぶ関西の名門校である。簡単には入れないぞとおどかされて猛烈に勉強したことをなつかしく思い出す。

北野高校は、本年で創立140年をむかえる。大学進学でも平成24年実績でみると京都大55名、大阪大55名、神戸大28名等々東大をはじめ全国国公立大で235名の合格者をだしている進学校である。卒業生も多士済々で、森繁久弥は大先輩、鉄腕アトムを書いた漫画家の手塚治虫も2年後輩だし、マクドナルドのハンバーガー王といわれた藤田田は同級生である。3人とも鬼籍に入ってしまった。異色なのは日本維新の会代表代行の大阪市長 橋下徹も政治的なつながりは全くないが後輩になる。

誇り高い学校であった。第2校歌の1節ごとに「われら 天下の北中健児」の文句がでてくるのである。

「好事魔多し」というべきか。4年生から5年生になるとき、無理がたたったのであろうか肋膜炎と診断され、郷里島原へ帰って一年間休学。当時は良いくすりもなく、ただ安静に栄養のあるものを食べて体力をつける以外方法はなかった。食べ物も不自由な時代へと入りつつあったが、祖母の献身的な看護と栄養補給で回復、あらためて5年生の北野へ復帰することになる。

だんだんと戦争も苛烈の状態をむかえ、文系の大学高専生の徴兵猶予の制度が廃止され、学徒出陣で戦場へと狩りだされることになる。理系の学生生徒は徴兵猶予の特典がのこされていた。

北野を卒業するとき、わたしはもともと文系志望だったので、大阪の姉に相談したら「軍隊にゆくだけがお国のためじゃない」と説教され、不本意ながら急遽理系に変更した。担任の先生に「五高へ行きたい」といったら「都落ちじゃないか」といわれ難関の旧制高校の理科を受けたが失敗、あとで文系の試験問題をみたら全問解答は可能だった。この悔しい思いがその後何十年も続くのだが…。

二次志望の四国の徳島工専(国立)と、廣島高師を受験、さいわい両方とも一次試験に合格したが、当時大学の教授をしていた叔父に、どちらにゆくべきか相談にいった。叔父が「学校の先生は好きか」というから「きらいだ」といって廣島高等師範学校を蹴って四国に行くことをきめた。

運命のいたずらというべきか、この四国行きは想定外のトラブルで二次試験の口頭試験に間にあわず、みごとに不合格となった。

理系のどこかにもぐりこまなければ、兵役がまちうけている。そこで関西工専と大阪専門を受験、いずれも合格、関西工専は授業がおもしろくなかったので1週間で退学、大阪専門学校応用化学科へすすんだ。

この学校は、大正14年の創立で、昭和18年設立の大阪理工科大学と合併、現在の近畿大学となる。

化学が好きでこの学校をえらんだわけでなく、正直なところこの学校は、東大阪市の田舎にあり、学生食堂があって、米のめしがたべられるという単純な理由からだった。

戦争はますますひどくなり勉強どころでなくなった。われわれも勤労動員で名古屋の三菱航空機製作所で重爆撃機の製作をやらされた。

名古屋にいたころ海軍予備学生の試験をうけた。学科は合格、身体検査で耳が悪い(中耳炎で鼓膜がない)ので海軍はだめといわれた。

名古屋は連日の米軍の猛爆、地震もひどかった。われわれが働いていた工場のとなりに愛知時計の工場があった。ちょうど昼飯時に食堂めがけて米軍の爆撃にあい、頭のない人、手足をもぎ取られた人、まさに阿鼻叫喚の地獄をみた。

傷ついた人をそこらへんの石ころでも運ぶようにトラックにつみこむさまをみて、友人と「もうおしまいだな」と話をし、わたしは学業半ばで島原へかえった。

戦後、何回か復学のさそいをうけたが、いかなかった。

わたしごとを長々と書いてしまった。つまりわたしは、上級学校は中途退学だから、正確な最終学歴は、旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高校第57回)の卒業生である。

北野の体験で学んだものは、人間本気をだせば少々のことはできる、なせばなる自信をえたこと、そして困難に遭遇したとき、ますます闘志がわいて奮い立つ習性は、この当時の挫折感が、大きく役立ったことはまちがいない。

 

島原新聞 平成25年元旦号掲載

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