ちょっといっぷく 第95話

第95話 満州事変(1)

終戦6日前、130万人の在満邦人が、ソ連軍の満州侵攻により、筆舌に尽し難い辛酸をなめた体験談が、幾多の本に書かれているが、それを読むとき、満州問題を取り上げるのは気が重い。

しかし、大東亜戦争に至る道のりに、満州事変と支那事変は避けて通れないのである。

昭和3(1928)年6月3日、奉天(瀋陽)駅の手前で、北京から引き上げる途上の張作霖を乗せた特別列車が爆破され、張作霖は死亡した。この事件を指揮、実行したのは関東軍の高級参謀河本大作だった。

この事件以来、以前からあった排日、抗日運動が一層激しくなり、張作霖の後を継いだ張学良の強い反発を引き起こした。満州軍閥であった張学良は、国民党に入党して満州全土に中華民国の国旗である青天白日旗をかかげ、徹底的に日本への抵抗を貫く姿勢を明らかにした。

関東軍ー。

関東という名称は、遼東半島南部の大連、旅順等をロシアが「関東」と呼んでいたのを、日本が踏襲したことに始まる。鉄道及び関連施設の防御のために、ポーツマスで、守備隊14,000余りをおくことを清国が認めた。関東軍として改組されるのは、大正8年シベリア出兵からである。

張学良軍の日本人への圧迫、弾圧は日増しに過激となり、奉天近辺だけでも、暴行や器物、施設破壊など、日本人や日本企業関係の被害が、1年間で30万件をこゆる有様であった。満鉄も張学良が日清条約に違反して敷説した並行鉄道によって貨客を奪われ、折からの世界不況の影響もあって経営危機の状況であった。

折しも、昭和6年7月、万宝山事件(朝鮮人入植者が張学良政府から弾圧をうけた)、8月に中村大尉事件があった。参謀本部部員中村震太郎ら一行が支那兵に捕まえられ、不法に処刑された事件であるうえ、証拠隠滅のため焼き捨てられた事件である。

日本国内では、支那の非道を糾弾すべく「事実上交戦の状態」であった。

この状況下で、満州事件の発端となる柳条湖((溝)とも書く)事件の勃発をみる。

石原莞爾が首謀者といわれる。

昭和6年9月18日奉天北方約8キロの柳条湖で、わが満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを張学良軍の仕業として、直ちにその本拠たる北大営を攻撃、翌19日早朝までに、北大営の支那軍を敗走させ占領した。

戦後わかった真相は、関東軍が仕組んだもので、爆破の規模も、爆破直後、奉天行列車が通過できるほどの小さなものだった。まくら木の破損も2本にとどまり、破損個所は上下線合わせて1メートルにも達しなかったという。

関東軍は総数10,600人、それに対して、張学良軍は、常時動員可能な軍勢だけで25万、さらに支配化、影響下にある軍閥を含めると、総数約45万であった。さらに機関銃や迫撃砲が装備されているたが、関東軍にはない。戦車を40両、運用航空機を50機有していたが、関東軍には戦車、飛行機は1両、1機もなかった。

このような質量ともに圧倒的な劣勢のもとで、いかにして張学良軍と戦うのか。しかしその戦いは、徹底的かつ完全な勝利でなければならない。

陸軍随一と言われた俊英、石原莞爾(当時関東軍作戦主任参謀・中佐)は、考え抜き、巧み抜いてこの拳に出た。

寸分の狂いもない、緻密な作戦行動計画、疾風怒濤の快進撃で何十倍の張学良軍を駆逐したのである。

めざましいのは、戦闘だけではなかった。花谷正少佐率いる憲兵隊の動きも俊敏だった。奉天の憲兵隊分隊は、市内の中国系金融機関、中国銀行、交通銀行、東三省官銀號を封鎖するとともに、質店をはじめとする市中の金融機関までをも監視のもとにおいた。言うまでもなく、張学良軍が預金を引き出し、戦費を調達することを防ぐためである。

さらに市内の新聞、通信社等の報道を差し止めて、情報の漏洩を防ぐとともに、中国側の電信、郵便機関の長距離電話、電報機器のすべてを接収した。

奉天市内は、事変の勃発にもかかわらずきわめて平穏であり、学校や公機関は通常通り開かれ、一般市民は何の変化もなく生活をしていた。けだし、憲兵隊の手柄と言うべきだろう。

活躍をしたのは、軍だけではなかった。戦闘の開始とともに、郵便局、電信局は、徹夜の態勢で、軍の通信に協力するとともに、中国側や各国報道機関などの通信を妨害した。満鉄は、兵員輸送のためにダイヤを急遽編成し、大車輪の輸送スケジュールを組んだのみならず、馬車や車両などの輸送機材、要員などの調達に幅広い協力をした。

満州共和会などの民間団体が、関東軍支援のために各地で活動した。

まさしく、軍と民とのへだてない、満州の日本人全体の一致協力があったのである。

石原莞爾の戦略は完璧であった。

満州における張学良軍の最後の拠点となっていた錦州攻略がある。錦州の攻防戦は、張学良軍精鋭との衝突の可能性が高く、在満の戦力では、作戦遂行はおぼつかないとされていた。だが、張学良軍は、日本軍の作戦発動と同時に、撤退を開始して、満州を離れ、中国本土へ全軍を移動させた。

ここで実質的には満州事変における軍事行動は終結する。(中国政府と、正式の停戦協定を結んで、満州事変の終結が確定するのは5月末)

柳条湖で銃撃戦が始まってから、3月余りしかたっていない。

※参考文献=福田和也著・地ひらく、中村粲著・大東亜戦争への道

(前島原商工会議所会頭)

2003年12月23日