ちょっといっぷく 第78話

第78話 不易流行 松尾芭蕉

 

去る7月2日、旅の詩人 松尾芭蕉の「おくのほそ道」を特集していた。なかなか充実感のある質の高い内容となっていた。これに刺激されたわけではないが、松尾芭蕉のことをもっと知りたくなって調べてみた。

鈴木治雄氏(昭和電工名誉会長)は、英国の過去1000年の代表は「シェークスピア」、日本史上では、人生をどう見るか、人生の意義の価値観という観点から考えると、芭蕉はきわめてユニークで世界的にも比類のない存在だというのである。つまりシェークスピアに匹敵する存在だというのであろうか。

芭蕉はもちろん本領は俳人であったが、また名文家でもあった。もっとも有名なのはいうまでもなく「おくのほそ道」である。

序章は「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」に始まる。

「月日は果て知らぬ旅人。行く年来る年もまた、旅人と変わりはない。

水に舟を浮かべて一生を送る者も、馬のくつわを取って老いを迎える者も、その日その日がすなわち旅、旅がすみかの暮らしである。

あの中国の詩人李白や杜甫も、わが西行や宗祇も、ともに旅の半ばで命途絶えた先達であった。かくいう自分も、いつの頃からか、風の空行くちぎれ雲に誘われて漂泊の思いやまず、心ひかれるままに遠い海辺をさすらう身となった…」

全距離約1900㌔余、約150日をかけた『おくのほそ道』の旅は元禄2年(1689年)、江戸の深川から始まった。ときに芭蕉46歳。同行したのは5歳年下の門人、曽良。

江戸を発って45日余り。芭蕉が『おくのほそ道』きっての名文で熱く切なくうたい上げるみちのくの都・平泉。

「三代の栄輝一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す」

奥州藤原氏三代の栄華は跡形もなく、金鶏山だけが昔のまま穏やかな山容を見せていた。

芭蕉は真っ先に、かつて源義経が兄、頼朝に追われ、少年時代に世話になった秀衡を頼って平泉におちびたときに住んだ居館跡の高館に登が、そこには眼下に悠々たる北上川の流れが見えるだけであった。

偖も義臣すぐって此域にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ

 夏草や兵どもが夢の跡

芭蕉が涙を流した高館からほど遠からぬ所に、初代藤原清衛の建てた中尊寺がある。芭蕉と曽良は金色堂(金堂)を拝観した。

五月雨の降りのこしてや光堂

この旅は必ずしも平穏ばかりではなかったようである。関所で厳しい調べを受けたり、山賊への恐怖に見舞われたり中山越では一軒家の庄屋に泊めてもらったが、

蚤虱馬の尿する枕もと

その夜、ノミやシラミにおかげで眠れない枕もとに、土間を挟んだ馬小屋にいる馬が尿をするすごい音を聞いた。と芭蕉の体験である。

山形領の立石寺に登って

閑さや岩にしみいる蝉の声

の名句を残した。最上川で舟に乗って

五月雨をあつめて早し最上川

そして舟を降り南谷に泊って

有難や雪をかほらす南谷

出羽三山を巡拝し、その思いを句に詠んだ。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峰幾つ崩れて月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

日本海の商都・酒田では

暑き日を海にいれたり最上川

この他に、人口に膾炙された数々の名句は、諸賢の記憶にあろう。芭蕉の代表作はなんといっても

古池や蛙飛び込む水の音

だろう。

芭蕉は、自分は辞世の句は詠まないといったが、一代の絶唱ともいうべき

この秋は何で年よる雲に鳥

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。

がある。「おくのほそ道」に旅して5年後、元禄7年大阪で門人たちに看取られながら静かに永眠。

享年51歳。

芭蕉は「猿蓑」の発句を機禄として俳句には「不易と流行」の二面があると説いた。

「不易」を知らなければ、基たちがたく「流行」を知らなければ、風新ならず。

「不易と流行」こそ俳諧の本体だというのである。

 「不易」とは、どんなに時代が移ろうと永遠に変わることのない、ものの本質を指し、

「流行」とは、時代とともに移り変わること。

 現在のわが国の世相をながむれば、芭蕉の唱える「不易流行」の言葉は、単に俳諧の世界に限らず、21世紀の日本にとっても最も重要かつ適切なキャッチフレーズではなかろうか。

(前島原商工会議所会頭)

2003年8月26日

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