ちょっといっぷく 第72話

第72話 東京裁判

 

谷沢永一氏と渡辺昇一氏の対談(いま大人に読ませたい本)の中で、小堀圭一郎の『東京裁判・日本の弁明』を読んだほうがいいとあったので、取り寄せて読んだ。

原本は、副題「東京裁判却下未提出弁護側資料」全8巻総項数5500項という代物でこの本は、そのダイジェストである。それでも565項の大冊で、読了するのにかなりの努力を必要としたが、われわれが過去教えられていたこともあるし、また新しい発見もあった。

東京裁判は東京新宿区の市ヶ谷台にあった旧陸軍士官学校跡で開かれ、A級戦犯28名が起訴され裁かれた。

昭和21年5月3日開廷、2年半後の昭和23年11月12日に刑の宣告が行われた。当初東条英樹陸軍大将・元首相をはじめとする28名、裁判中松岡洋右と長野修身両被告が死去、大川周明は精神異常で除外、最終的に25名全員が有罪判決、東条被告等7名が絞首刑にされた。

弁護側は、国家弁護を優先させ、被告個人の弁護は二の次にするという基本姿勢であった。あの当時、弁護士たちは極めて劣悪な生活状態であった。例えば副団長の清瀬一郎は空襲の罹災者であり、自宅焼け跡近くの寮に仮住まいをもとめ、焼け跡にドラム缶をおいて据風呂とし、かぼちゃを植えて食糧を自給するといった生活であり、資料の収集や整理に助手として働いてくれる人たちに払う日当がなく、企業を回って資金援助懇請したりした。一方では占領軍の「検閲」という厳しい情報管理体制下におかれ、言論、報道の自由という権利は日本国民になかった。

その中にあって、第一級の弁護人たちが無報酬(あとで政府から若干の報酬がでたようだが、それでも3人の弁護人は最後までそれを受け取らなかった。)で、当時の法廷外の社会ではとても公表できないような堂々たる祖国弁護をなし、連合国糾弾の議論を展開したのである。

しかし苦心の証拠も「勝者による報復的私刑」という裁判の性格上、連合軍側に不都合なものとして、8割は却下された。

これらの資料は、昭和3年から昭和20年までの日本の政治・外交・戦争史についての弁明(弁解ではない)が凝縮された集大成であり、極めて重要な、ぜひとも後世に伝えたい名論文がいくつかある。もちろん紙面の都合上全部を紹介するのは不可能だが、その中の2つについて書きたい。

昭和12年7月7日支変の発端となった蘆溝橋事件について述べている。

日本軍のこの付近での夜間演習は国際法上条約の権利にもとづいて行われたもので。完全に合法的な行動であった。

発砲したのは中共の中央部の指令部に操られた学生義勇軍の仕業らしいのだが、日本は終始不拡大方針を守り問題を局地的に解決すべく努力した。

11日には日本軍と中国軍との間で協定が締結され、事件の責任が中国側にあることが明らかにされた。

現代は、中国共産党が自らの謀略によって日本軍と国府軍の双方を罠にはめ、漁夫の利を占めようとした陰謀の内幕を自ら認め、むしろ誇っているような形勢になっている事実を知る必要がある。

東京裁判では深追いすればかえって不利とみた検察側があえて追及の手を緩めた。

検察側は次々に「犯罪」じじつの訴追立証を行い、連日新聞紙上に報道されて全国民の注視をあつめたのが「南京問題」である。

これについての弁護人の主張の論旨はこうである。南京問題の証言のために法廷に呼び出された検察側証人たちは、簡単にいえばそこまで思う存分にホラを吹きまくり、見てきたようなウソをつき放題に言い散らす。遺憾ながらそれに反駁する力も手段もない。ある事実が「あった」という証明は証拠さえあれば誰にでもできるが、「なかった」という証明は極めて困難である。南京問題が全く検察側証人たちの虚言から捏造された架空の事件であるとの実証的及び文献的研究は数多くあるが、東京裁判所がかかえこんだ大醜聞であり、長く歴史に残る不名誉な失策となった。

余談になるが日下公人は「5年後こうなる」の著書のなかで、中国が南京大虐殺などを繰り返しもんだいにするのは、

1.強い日本に勝ったから共産党は偉いと思わせる。

2.日本から援助をとるのに有効

の2つの理由だと言う。中国側は、底流に「日本は強し」「日本は恐るべし」と考えている。

日本人は中国強しと思っている。だから平和なのである。

とすれば、この状態を永続させるように努力するのが平和外交というものである。南京事件のPRは、日本としても大歓迎かもしれない。(実際にはなかったと思っているが)

(前島原商工会議所会頭)

2003年7月15日

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