ちょっといっぷく 第51話

第51話 ポルトガル紀行

 

「みよ、ここにヨーロッパ全体のいわば、いただきにルシタニア王国がある。

 ここで大地はおわり、海が始まる。」

これはポルトガルの国民詩人、カモンイスの叙情詩『ウズ・ルジアダス』の一節である。

「ルシタニア王国」はポルトガルの古名。この詩のとおりユーラシア大陸の最先端に位置するポルトガルは、まさに最果ての国といえる。

いささか古い話になるが、過ぐる平成5年9月、ヨーロッパのガソリンスタンドの事情視察に出かけた。行く先はイギリス・フランス・スイス・ポルトガルであった。

ポルトガルを選んだのは、日本のある会社と合弁のガソリンスタンドがあり、それを見学研修することが主な目的であった。

アルメニア人でグルベンキャンという人が大戦後、バクー油田で財を成し、2千億円の基金を利用して、ポルトガルでパルテックスという財団を設立、日本は彼の仲介で3万バーレル/日の石油を買い取っていた。

彼から日本の石油会社に、合弁で石油販売をやらないかと申し入れがあった。

当初は固辞していたらしいのだが、国の専売制度が緩和され、1989年イデテックスという会社を設立、石油の販売に乗り出していた。

スタンドのレイアウトや現地人のメンバーの服装も全く日本とおなじ、事務所の屋上にへんぽんとひるがえる日の丸の旗が特に印象的であった。

ポルトガルは人口1千万人、その2倍、約2300万人の観光客が訪れるとのことであった。

長い歴史で培われたモニュメント・建築物・温暖な気候や美しい自然が人を呼ぶのだろう。首都はリスボン。午後10時半頃から暗くなり、朝は8時まで暗い。

15世紀以降、ポルトガルは大航海時代を迎える。喜望峰に到達(1488)、ヴィスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓(1498)そして1500年にはブラジルを発見。これらにより得た、巨万の富でジュロニモス修道院やベレンの塔などを作った。

長崎とは特にゆかりが深く、交流は1550年のポルトガル船の平戸入港。フランシスコ・ザビエルが平戸に立ち寄り布教したときから始まる。平成5年10月には、日本ポルトガル友好450周年を記念して、ソアレス大統領が本県を訪れている。

ボタン・カステラ・メリヤス等の日本語として定着したポルトガル語は多い。年配の人に懐かしいポートワインは、ポルトガルのドゥロ河の上流で育ったブドウを用い、その地方のブランデーを添加し、河口のオポルト港から積み出される。積み出し港の名前が銘柄になった珍しいケースである。

その他種子島にもたらされた火縄銃もある。

ポルトガルの酒場でよく歌われているのが『ファド』だ。人を恋い、愛をうたう民衆歌謡である。

日本人の琴線に触れる歌はすばらしい。国民性は日本人に似ており、労働者もまじめでよく働くそうだ。

たまたま、文芸春秋新年特別号に阿川弘之(作家)のエッセーが掲載されていた。ちょっと長いので要点のみ引用する。

ポルトガルは、ここ20年の間長い眠りから覚めて、首都リスボンを中心に急速な近代化をとげつつある。

その理由としてEU加盟国のポルトガルに対する各種投資や経済援助が急増し、他国の力を自国再興の原動力とする仕組みが出来上がって、財政立て直しが進んだ。

二つ目は、1998年のエキスポ、リスボン万国博を成功させたことで、ポルトガル国民自身が自分たちの潜在能力を再認識、世界中の国がポルトガルを見直した。

大航海時代のあと、およそ400年鳴かず飛ばずの低迷状態が続いて、今やっと光を吹き出そうとしている。

それに比べ日本の落ち込みはまだ10年。昭和の初め、軍が不当な政治介入をして無謀な戦を起こし、敗戦、焼け跡からの復興がうまくいって金持ちになり過ぎた末、平成の再転落と二代にわたる栄枯盛衰の道程を通算しても僅か75,6年あまり性急に悲観したり絶望したりしない方がいいのではないか。

400年ぶりに活火山の様相を取り戻しつつあるポルトガルを思えば、日本人が本質的に持っている優れた知性と技能、勤勉で律儀な国民性を活かして、崩れかけの祖国を再構築することは十分可能ではあるまいか。

と述べているのだが…。さて?

(元島原商工会議所会頭)

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