ちょっといっぷく 第47話

第47話 米百俵の精神

 

5月7日、小泉首相の所信表明演説があった。最後の方で越後長岡藩の「米百俵」に触れていたが、手元に業界新聞に畠中茂男氏(ジャーナリスト)が3月1日書いたコラムに米百俵が掲載されている。

越後長岡といえば、連合艦隊司令長官山本五十六大将(死後元帥)が生まれたところ。北越戊辰戦争で官軍と戦って死んだ長岡藩家老、河井継之助が有名である。

この河井継之助については、尊敬する奥村孝亮先生が書かれた「歴史学への道」にも取り上げられ、時には司馬遼太郎の「峠」を引用されその他貴重な資料にもとづいて詳しく書いておられる。

「いかに美しくいきるか」という武士道倫理によって死んだとあるが、奥村先生によると、司馬さんは、江戸期のサムライの美の典型を継之助に認められたのだとおっしゃる。継之助については、小説やテレビドラマで取り上げられご存じの方は多かろう。

閑話休題、この長岡藩に小林虎三郎という大参事がいた。生まれてまもなく疱瘡(ほうそう)にかかって左眼をつぶし、顔には無数のあばたを残した。虎三郎と継之助は親戚でありながらも、肌合いが違ってライバルだった。江戸に出た虎三郎は佐久間象山の塾に入って頭角を現し、吉田松陰(寅次郎)とともに「両トラ」と呼ばれて象山にかわいがられた。しかし、横浜開港を藩主に主張したことから10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。戊辰戦争で継之助は敗れて死ぬが、虎三郎は非戦派だった。焦土と化した長岡藩は、飢えと混乱に陥り、人心は荒廃する。そこへ分家の三根山藩から救援の米百俵が届く。

藩の大参事に登用された虎三郎は、飢饉に苦しむ藩士たちに米を分配しようとはしなかった。この米をもとにして、学校を建てようとした。怒り狂った藩士は大挙して押し寄せ刀を抜いて分配を迫る。しかし虎三郎は「育英こそ百年の大計だ。人物をつくるのだ。これが長岡を救う道だ。明日の新しい日本をつくるのだ」と説く。藩士たちは涙し、感動し納得する。かくて「国漢学校」が設立された。

この学校こそが、のちの長岡中学校とつながっていく。ここからは山本元帥のほか多くの偉材、傑物が出た。

小泉首相は、財政再建という痛みに耐えて明日を良くしようと「米百俵の精神」を持ち出し改革に立ち向かう志と決意を訴えたかったのだろう。

この逸話により遡ること80年近くまえに、我々の郷土島原には、すでに立派な学校が存在していたのである。

藩祖松平忠房の時代、すでに島原藩教の基礎を開いたと島原半島史に詳しい。特に忠恕は興学の志篤く、つとに学校設立の企図を持っていたが島原大変に遭って急逝、その子忠馮は、この寛政の惨憺たる変災のさなか、藩の財政が極度に窮迫、復旧だけでも一通りでもないときに、寛政5年9月、城内先魁に『稽古館』という名の学校を創設した。これが島原藩学の起源である。

けだし、わが郷土の先人達の志の高さ、先見性についてただただ驚嘆するのみ。

中国春秋時代、斉の宰相管仲は、その著『管子』のなかで

一年の計画なら穀物を植えよ

十年の計画なら木を植えよ

一生涯の計画を立てるなら人材を養成せよ

と説いている。

(島原商工会議所会頭)